2018年6月26日(火)15:13 兄を見送った。

こんにちは、フェルナンデス由布子です。
まず、遅くなりましたが、この度の西日本の豪雨災害で被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。

個人で支援できる形は色々整っていて、ポイントやマイルなどで気軽にサポートできます。
私も各所で少しさせて頂きました。なんとか乗り越えていけるよう心を寄り添わせて行きたいものですね。

先月は大阪で大きな地震もありました。
災害の多い日本では、いつ自分が被災者になるかわからない、そこで命を落とす可能性だって少なくないですよね。

災害に限らず、私たちの命は保障されたものではない。いつか必ず死にます。

でも思いもよらないタイミングや順番で
その死が目の前にやってくることってだーれも想像してない。
でも実際起こったらその衝撃は、なかなか言葉で表現できません。そのことがわかってしまいました。

2018年6月26日15:13 次兄が胃がんで亡くなりました。
ちょうど一ヶ月前のこと。

ツイッターやフェイスブックには少しアップしたのでご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、告知されて3ヶ月も経たないうち、日本の癌治療トップクラスの病院の主治医さえも「めったにない」と驚くほどのスピードで悪化し、こんなにも早く逝ってしまったのでした。

早すぎる兄の死は、言葉にできない感情も含め私の中でいろんな感覚を巻き起こしました。

自分だけの日記に羅列したのものもたくさんあるけど、経過の記録と記憶や感情をきちっとまとめておこうと思います。シェアできる人にはシェアしたい気持ちもあるものの、基本、自己満足的な記事ですのでご理解のほど。

経緯

兄は2018年3月半ばに体調を崩し身体に激痛が走ったり急激に痩せるなどがあり、クリニック→総合病院とかかり、三月末にはどうやらガンではないか、と。

3月30日(金)に母から電話を受けゆっくり話をし、予定をキャンセルして兄のもとに電話。兄と1時間以上長電話をするなんて初めてだったけれど、何が起きても覚悟できてる、といった様子だった。

そして検査を重ね一週間後には、低分子線の胃がんステージ4とわかり、2018年4月16日(月)に抗がん剤治療スタート。

その時点でもうなんともショックだったし、本人がどう捉えてるかも想像すると辛かった!
初めて会いに行った時は、なんて言葉をかけよう、と緊張したのを覚えてる。

でも1クール目、2クール目と順調に数値も下がって、確かにステージ4でも抗がん剤が効いて元気になってる人もいる、と希望を持っていた。

この時は私も他の兄妹たちも、そして両親、特に母はよく兄の家に通い、気晴らし相手になったり、副作用によるむくみのマッサージをしたりして。副作用が強くなってからは母は更に足繁く通ってた。

憎まれ口の方が多い兄が
「もう帰るの〜?」
「もっといなよー」
と毎回言うのを聞いて、心の中どれほどの不安を抱えていたのだろうと、
今になってもっとできることはなかったかと、悔やむ気持ちも正直ある。

それでも、兄にマッサージなんてスキンシップはほぼ初めてだったし、なんて事のないおしゃべりだって久々の時間だった。これは各々が兄との絆を深めた時間だったかもしれないなあ。良い時間だった。

そして、3クール目あたりから副作用が強くなり調子が悪化し始め、(それはどうやらガンが進んでいたのかもしれなかったけれど、、)、4クール目スタート予定の6月18日(月)はもう立ち上がって病院に行けないほどだったらしく、時間かけてなんとか車に乗りそのまま入院。

次の日お見舞いに行って、強いショックを受けてしまった。
ただでさえ痩せてたけど、脱水もあってかさらに痩せこけて。
正直、この時少し覚悟をしたな、私は。

ガンが肝臓まで浸潤してその威力が強く、体力が落ちていてもう抗がん剤ができない、あとは対症療法しかない。

そう、入院した次の日に話を聞かされ、だいたい残ってる日にちも伺って。
電話で母から聞いて、、そりゃお互い泣くよね。

この日は仕事でレッスンを終えた後、夫が外出することがわかっていたこともあり、家に帰りたくなくて一人で新宿のバーで飲んで帰ったんだった。

それからは、ほぼ毎日病院に通った。いけない日もあったけれど。
6月24日の日曜日はいとこや兄弟もみんな集まってて、最後は病室の外に散歩にいったりもして。

ずっと窓の外をみていたおにーちゃん。この時何を考えていたのだろう。
(ちなみに私は太り過ぎ)

この次の日、6月25日(月)
何かあって心臓停止した場合、蘇生処置しますか?と担当医から話し合いがあった。家族も了承済みでの話。

え?おれ明日死ぬの? と兄。
いや、皆さんに話してることですよと先生。

夏、こせる?と兄。
先生、言葉濁してモヤモヤ。

全く若い先生だから融通効かないったら!!
もう少し気の利いた事でも言えたらいいのに・・・

と心の中で悪態をつき、カーテンの陰でその話を聞いていた。

最後に、

「これを聞いて俺は今夜何を考えて眠ればいいの?」

静かにそう言った兄の言葉は忘れられない。

この時の兄の気持ちがどうだったかって、想像を絶する。
でもそれもほんの束の間だったのかもしれない。

この話があった明け方から呼吸が乱れてきて、次の日11時頃病院から連絡があり、6月26日火曜日の午後、亡くなったのでした。

この間、たくさんの人がお見舞いに来てくれて、仕事仲間も古い友達も大勢きてくれて、亡くなる当日も、午前には仕事の先輩や仲間がきて、その時は更に意識もはっきりして、「元気玉もらって」と握手して、「また仕事一緒にしましょう!」と見送ってた。

少し意識が朦朧とすることもあったけど、
周りがトラウマになるほど苦しみ抜いたりなど、壮絶な最期も多いという癌患者のそれとは違ったようにも見えた。
(もちろん最後は呼吸が乱れたり辛かったろうけれど!)

最後の日まで意識はしっかりしていて、奥さんや、ギリギリ間に合った息子も交えて親子で抱き合ったり、「俺頑張った!」「ありがとう!」と伝えてくれたり。

最後はみーんなが見守ってた。
家族全員。
父が到着して、ほんの数分後に息を引き取った。

この日は兄の息子の8回目の誕生日でもありました。

かなり悪性度の高いガンだったし今後のためにも、と病理解剖を申し出され、前の日「臓器移植は無理かなぁ」などと話してたこともあって、お願いした。

まだ細かい結果は出てないけれど、初見によると首から下、お腹までがん細胞だらけだったとのこと。

大変だったね、おにーちゃん!!!!もうよく頑張った!!!

今は少しは楽になっているかな。
すこしでも、その魂が穏やかであるよう祈ります。

天晴れな人生

6月29日(金)のお通夜、30日(土)の告別式には数え切れないほどの供花を頂戴し、300人近くの人がいらしてくださった。

本当に面倒見の良い人だけど、無邪気な子供のような部分もあって、多くの人に愛されていたんだろうなぁ、と自慢の兄がさらに誇らしく感じた。

兄がこんなにも早く死んでしまったこと、本人ももっとやりたいことあったろうし、担当医と話した時の兄の気持ちなども考えるとそれは辛いけれど、、、
でも残念だ悔しい!と嘆きたくはない。

好きな仕事で成功して多くの人に認められ慕われ、大好きな奥さんと、可愛い子供に恵まれた46年の人生は立派で素晴らしかった。

太く濃密なあっぱれな人生ではなかったかと。

兄の死後、兄が慕った上司の方から、長兄と話したいと連絡を頂いた。
その方自身が、リーダーシップ、包容力、優しさ、実力を兼ね備えた素晴らしい方なのだが、そこまでの方が「彼がいなければ今の私はいなかった」と肉親のように思っていたとわざわざ伝えてくれたのだ。

本当に、こちらが勝手に言うのもあれだけど、短いけど本当に幸せな人生だったのではないかな。

おめーがきめるんじゃねぇよ〜とか言いそうだけど(笑

幼い頃の写真^^
(勝手にのせるんじゃねえよ〜)

兄の状態が悪化していく中、「なぜ兄が?!」「どうして?!」と思う気持ちがゼロではなかったわけではないけれど、もう神様が定めた命なんだろうな、、と流れに身をゆだねるしかないんだろうな、って想いはずっとあった。

同じような食生活をしていても、検査をしていても、病気になる人もいればならない人もいて、早期発見で幸運だった人もいれば兄のように見過ごされる場合もあるしね。

何をしてたらOK!なんてものはない。
だとすると、もう人事を尽くして天命を待つ、しかないのかなと。

人生をあきらめるわけでも
投げやりになるわけでもないけれど、
自分の力が及ぶ範囲は限られていて、あとは宇宙の流れに寄り添うのみ。

自分ができることをしっかりやったら、あとはその流れに漂うしかない、と思った。長い目でみるとそれの方がきっと穏やかな気持ちで生きられる、そんな気がする。

そして、冒頭でも書いたけれど、
明日生きてる保証なんて何もない。

だからお金がない時間がないとか、めんどくさいとか、人の目が気になる、なんてことを気にしてやりたいことをそのままにしておくような余裕は人生にはないのだ。

やりたいことをとことんやって大暴れして、精一杯生きよう、って本当に心底思った。
前から思ってたけど、これが本当に「実感した」ってヤツだと思う。

家族や仲間のありがたみ

そして、今回改めて思ったのは兄妹が多くてありがたかった!ということ。
うちは5人兄妹なので、他に後4人いるからね〜^^

こんな時協力し合えたり、話したりメールしたりして、気持ちを落ち着かせたりできる相手がいるのは本当に心強かった!

母もよくそう言ってくれてた。
特に長兄は自由がきく仕事柄、病院の送り迎えから、亡くなった後の事務的な手続きまでもずっとサポートしてくれてて頭が下がるよ、ほんと。

長兄の奥さんも同じ。ものすごく明るくてしっかりした人で、両親の近くに住んでることもありいつも支えてくれて。そして笑わせてくれて一緒に泣いてくれてその存在に闘病中も亡くなった後も救われた。

亡くなった兄も、「うちは兄弟が仲良くて色々やってくれてる」とか、長兄のサポートのこととかを仕事関係の方に話してくれてたみたいで、それはなんだか嬉しい。

そして、話を聞いてくれた家族のようないつもの歌仲間や、近しい友達の存在も本当にありがたかった。おかげで気持ちが楽になった。

もちろん夫もそう。
夫は17歳の時に父親を、半年後に母親を亡くしていて、大事な家族を失う悲しみを経験している。

私の気持ちをよく理解してくれ、私がメソメソしてると、ヨシヨシとなだめてくれ、でも「悲しみは必ず癒えるよ」と励ましてくれる。今回はほんとうに彼が頼もしくて結婚してよかったなあ、と惚れ直しましたわ。

2014年夫と兄と。兄二人が中心となって入籍パーティーをしてくれた日。

そして、もう一つ。

そこに感情が向いてしまうことが多くその時はなかなか辛いので、違う方向に気持ちを持っていくことにしてるんだけれども、

奥さんや小2になる息子が毎日どう過ごしてるか、ということと
あとなにより、子供を先に見送るという、人生において最大級の悲しみとも言えるものを80歳近くにもなる両親が味わってるという事実。

しかし、今回改めて両親を尊敬した。

両親には深い信仰の土台があるからかな。

兄が亡くなった直後、
「お疲れ様、はやくかえっておいで」と手を取って父は兄に話しかけた。

この世では神様に体を借りているだけ
魂はずっと続き、またこの世に戻ってくる
神の大きな考えのもとでは良し悪しなどわからない

そんな思いがあったのでは、と勝手ながら感じたりして。

もちろん深い深い悲しみを味わいぐったりとしてるけれど、嘆き続けず、残念無念を口にせず、そんな中にも感謝を見出そうとする両親は本当にすごいなあ、と。
(ブログ最後に、父が関係者に向けて書いた兄の訃報便りを記録します。)

私は兄妹の中では一番家に連絡をしない、訪問しない娘でしたが、これからは両親の話し相手にもっとなろうと思う。たぶん。

そして、同い年である兄の奥さんも芯が強く明るくずっと兄を力強く支えていた。そんな義姉とその息子のサポートも、できる限りやっていきたいな。

先日、7月16日、家族がたまたま集まり、夜は両親と長兄、次兄の奥さんと私で、病気の話など兄の闘病のことを話してた。ま、自然の流れの中で。

改めて奥さんの悲しみ、後悔、兄や母の嘆きを聞き、みんなで、「もっと楽になるように、気づいてあげればよかった!」とまた深く悲しくなっちゃったりした。
みんなでおいおい泣いたり、思い出話して笑ったり、そしてまた泣いたり。

悲しい時は思い切り泣けばいい。
もう泣けないくらい泣けばいい。
話して泣いて思い出して、、
そんな時間は気持ちを整え悲しみを違う形に昇華させて行くためにも、とても大切なことなのではないかな。

そして、こんなふうに話せる家族がいることは、本当に幸運なこと、と心から感謝。

さっきの写真と同じ私の入籍パーティーで5人兄妹と両親。

気持ちや死生観の変化

悲しみは違う形に変わっていく、、これはこの1ヶ月でも少しずつ感じていること。
いや、悲しいのだけれど、捉え方や距離が変わる。

死生観もぐっと変わったように思う。
なんだか、言葉は悪いけれど、、死ぬって大したことじゃないんじゃないか、、みたいな。

うーん、うまく言えないのだけれど。。

最初は、まだまだ信じられない気持ちもあって(ま、それは今もだけれど)、
慣れ親しんだ現実と目の前の現実との乖離が激しくて、意識のピントがずれてるような、生まれて初めての感覚を味わった。

そのズレに気がつくとたまらない喪失感のようなものを覚えた、というか。

ただ、悲しい、という言葉では到底片付けられないこと。

でも、時間が経つにつれて、その「慣れ親しんだ現実だったもの」と、「目の前の現実」が、少しだけ寄り添ったのを実感したこともあった。
三歩進んで二歩下がるような歩み方でもそうやって二つの現実が近づいていくのだろうと、、そう感じてた。

でも、ほんとつい最近、、兄の遺影を見てたらふと浮かんだ言葉があった。

生と死の境目ってなんだろう、そもそもそんなものがあるのか、と。そんな現実のズレなんてないのではないか

と。

兄は死んでしまったけれど、その姿はくっきりとした輪郭を持って像を結び、その声は数ミリの狂いもなく脳内にこだまする。非常に鮮やかに。これもはや生きてるとしか思えない。

最初に感じてた「慣れ親しんだ現実」と「目の前の現実」のズレは、片方ずつバラバラに見ようとしてたから感じてただけであって、本当は生の終わりに死があるのではなくて、どちらの世界もパラレルでずっと存在してて、会いたければすぐ会いに行けるような、、、
そんな感覚が呼び起こされた。

もう今はそんな気がしてならない。
よく「心の中で生き続ける」などと言うけれど、それと近いのかもしれないなあ。

だから、「死ぬ」って、もちろん大変な出来事だけれど、魂レベルで見ると実はちょっとした入学とか卒業とか引っ越しとかそういうものなんじゃないかってね。

今は思い出すにつけまだまだ悲しいけれど、頭の中ではそんなことを考えている。
でもその悲しみもきっと、暖かい思い出に包まれる日が来ることも、なんだか知ってる気がする。

そんな中、これからの私は何をしていくのか。

私らしく兄を偲ぶなら、自己満足だけどやはり歌うこと。
これはもう少し、泣かずに歌えるようになったら記録するつもり。
オリジナル曲もつくれたらなー。

そしてもうひとつ。兄は私の仕事を気にかけ、応援してくれてた。(心配で気が気じゃなかったのだと思うが^^;)
このボイトレ教室のサイトも、兄の計らいで、兄の会社の方が土台を作ってくれもの。ほんとうに感謝!

なので、この記事は歌手としてのアメブロ記事に書こうかと迷ったけれど、兄が見てくれてるような気がして、、こちらに書くことにしました。(アメブロには転載)

それに、これは何十年も経ったとしても記録として残したかったので自分メディアに保管する方がベターだしね。

これから私は、いつも私の仕事を気にかけてくれて、そして自分の仕事への情熱も最後まで失わなかった兄の分まで自分の仕事に精力を注ぐぞ!!

そして、何度も書くけど、いつ死ぬかなんて本当わからない。
明日死ぬかもしれない、そう思ってやり残すこと伝え残すことがないよう、毎日を本当に精一杯生きていく。

兄の声

葬儀は実家の近くの兄の幼馴染が営む葬儀場で行われることになったため、前日兄は世田谷区の自宅から下町の実家に来た。

夜私は実家に泊まり、兄が安置されていた隣の部屋で寝ていた時のこと。

あまりよく眠れなくてうつらうつらしてる時に、

兄が玄関から
「うぃーっす」
って入って来て、(ほんといつもこんな感じ)
「いや、もう ヘトヘトだよ」
って一言言ってきた。

そこで目が覚めてしまったけれど
家族や奥さんに言ったら、
「いいそうだね^^」と。

この3ヶ月で兄の人生は大きく変化をして、
身体も心も心底!疲弊しきっていただろう思う。
身体の変化に心がついていかなくて瞬く間に命は終わってしまったうように思える。
ヘトヘト、、は本当のところだろうよ。。

本当にお疲れ様でした、お兄ちゃん!!!!

新しもの好きで情報通で仕事バリバリ、
派手好きでイケイケで頼れる、本当に自慢のお兄ちゃんだったよ!

5人兄妹の一員同士という程の縁深い私達。
またどこか他の人生、他のステージで、必ず会えるだろうと思ってる!

ほんとう、素晴らしい人生に大拍手!あっぱれ!お疲れさま!ありがとう!大好きだ!

今、お兄ちゃんの魂が大きなものに見守られて、穏やかで安らかでありますように。
心から祈っているよ。

2018.7.26
由布子

父の関係者向けへの便り
六月二十六日出直 享年四十六歳
六月二十九日・三十日と葬儀執行いたしました。
◯は今年の春頃より体調を崩し、駒沢の東京医療センター、慶応病院と検査・治療を受けましたが、ガンの病状の進行が早くアッという間もなく九日間の入院の後出直しいたしました。 本人は教会に出入ること少なく、皆様とお会いすることもあまりなかったのではないかと思いますが、それでも教会のこと、家族のことをいつも気にかけて、力添えをしてくれました。慎んでお知らせ致します。
◯はその性格通り、我々の横をすり抜けて猛スピードで駆け抜け去って行ったような気がいたします。やるべき事をやり遂げて充実した人生を全うしたのではないかと、我が子乍ら誇りに思います。 駆け去った先、遠くの方でふり向いて両手を振って白い歯をみせて あとはよろしく、さようなら、ありがとうと言い乍らスーッと消えてしまったような気がしてなりません。

遺影の写真

ちなみに却下になった遺影もここに残しておこう。
切り取りがおかしくてラガーマン風。
(俺で遊ぶんじゃねーよ!)

本当今までどうもありがとう。

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